レクチャー
加藤 一郎
(日本ショパン協会理事) Ichiro
Kato
〜ショパンと先人達の音楽、そして独自のピアノ様式〜
2024年5月29日(水)
開場18:00 開演18:30
会場:カワイ表参道
コンサートサロン「パウゼ」
入場料:3500円
好評のうち終了いたしました。 フォトギャラリー&アンコール
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内容
ショパンは独自のピアノ様式をどのように築いていったのであろうか?ショパンは少年期からバッハを学び、ワルシャワの音楽学校ではソナタや変奏曲等の古典的な音楽を学んでいた。しかし、音楽学校卒業後はそうしたジャンルから一旦離れ、海外での活動を目指してエチュードや協奏曲、バラード等のジャンルを開拓していった。パリで音楽的成熟を迎え、マヨルカ島から戻った後はサンドのノアンの館で作曲に没頭し、対位法を学び直し、舞曲様式における総合化を図った。最晩年の音楽は更に雄大さと深みを増し、新たな境地を模索しつつ生涯を終えたのであった。
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I.ワルシャワ時代
1.少年期(1810〜1826)
・ジヴニーとバッハ、ウィーン古典派、オペラ、ポーランド民族音楽そしてサロンからの影響
・ショパンが目指した音楽家
2.音楽学校(1826年8月〜1829年8月)
・エルスネルとワルシャワ王立大学付属中央音楽学校の教育課程
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《ソナタ》ハ短調作品4…対位法と動機労作、4音動機、暗示の技法
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《ドン・ジョバンニによる変奏曲》変ロ長調作品2…モーツァルト流の変奏技法とポーランド民族音楽との融合
3.ワルシャワでの最後の一年―方向転換―(1829年8月〜1830年11月)
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《練習曲》作品10、2つの《協奏曲》、そしてクレンゲル
II.ウィーン時代(1930年11月〜31年晩夏)
・挫折と孤独…《スケルツォ》ロ短調作品20
・ポーランド民族主義の高揚…《マズルカ》作品6と7
・文学的バラードとショパンのバラード…《バラード》ト短調作品23
・ショパンのテンポ・ルバート
III.パリ時代(1931年10月〜34年)
1.パリ適応の時代―パリの聴衆のための音楽―(1831年10月〜33年)
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「より高次の芸術的展望はしばらくの間棚上げ」(1831年12月14日)
・パリ・デビュー演奏会(1832年2月25日)
・サロン…「今の僕にとっては、これが一番必要なことで、ここからいわゆる良い趣味が、ここから流行が出てくるからだ。」
(1833年1月7日)
2.充実期―自分のための音楽―(1834年〜39年)
・ピアノ技法の発展…《練習曲》作品25
・音楽の多様性と統一の技法…《24の前奏曲》作品28
・天才的ソナタ…《ソナタ》変ロ短調作品35
・弟子の楽譜への書き込みから見るショパンの表現様式
3.後期―対位法と変奏、音楽の総合化―(1839〜1845)
・対位法…ケルビーニの教程の研究、マズルカとバラードへのカノンの挿入
・変奏と変容の技法…《バラード》ヘ短調作品52
・音楽における総合性…ポロネーズへのマズルカの挿入、マズルカへのワルツの挿入、《ソナタ》ロ短調作品58
4.最晩年―簡潔化と広大な音楽的構想―(1845〜1849)
・装飾の節約と簡潔化…《ノクターン》ロ長調作品62-1
・新たなジャンルの開拓…《舟歌》嬰へ長調作品60、《チェロソナタ》ト短調作品65
・広大な音楽的構想…《ポロネーズ・ファンタジー》変イ長調作品61
PROFILE 加藤 一郎 Ichiro
Kato
東京藝術大学卒業、ヴィンタートゥア音楽院留学。米谷治郎、マックス・エッガー、クリストフ・リスケの各氏に師事。タチアナ・ニコラーエワ及びコンラート・ハンゼンのマスターコースを受講。各地でリサイタル、協奏曲、室内楽、伴奏等の演奏活動を行い、NHKTV/FM等に出演する。著書に『ショパンのピアニスム』(音楽之友社)、『ショパンによるバロック音楽の受容に関する研究』(ヤマス文房)等があり、ショパンを中心に論文多数。ポーランド国立ショパン研究所、ヨーロッパピアノ教育連盟、日本ピアノ教育連盟、韓国ピアノ協会等における講演、公開レッスンやマスターコースの講師、内外の多くのコンクールの審査を行う。ナショナルエディションのショパン作品集日本語版監修者を務める。日本学術振興会科学研究費補助金を5度受給。文部科学省専門委員を歴任。国立音楽大学大学院教授を経て現在、国立音楽大学特別研究員。日本ショパン協会理事、日本ピアノ教育連盟理事。
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